バッカスは恋する乙女に微笑んで



もし、本当に、この手にしたグラスに宿る神が居たなら、あたしは願う。
この一時を、明日は笑って話せるようにと。


「しーずーるーちゃーーんっ!!!」

けたたましい、とでも言われそうな声をあげ、あたしは右横でウーロンハイをちびちび啜る後輩女子を抱きしめた。

「きゃー!真紀先輩ったら、またですか!」

酔っ払い親父に襲われたよろしく、小柄なしずるちゃんが抱きつこうとするあたしの手を受け止め、そのまま柔い身体を抱きしめさせてくれる。

うーむ。やはり若い子はええのう。
しずるちゃんは可愛い。それはもう、社会現象化した某アイドルグループなんて比べ物にならないほどに。漂白してるのかと言いたくなるほどの白い肌、黒目がでっかい潤んだお目めにサラッサラのロングストレート。
どこの深窓の令嬢かと初対面で思ったけれど、あたしと同じく普通のOLさんである。
天と地ほどの差があるが。
あたしはといえば、胸張りたいわけじゃないがバリバリの黄色人種の肌色に、二重の割には薄めの目元。
梅雨ごろには毟り取りたくなる天然パーマな髪質は、朝セットするのが面倒で肩までしか伸ばせない。

神様って不公平だ。幼い頃から気付いてはいたけれど。
容姿は仕方ないとしても、せめて胸くらい与えてくれたっていいじゃないか。
あたしのぺたりとした大平原な胸が、しずるちゃんのふっかふかのお胸に当たって、二人の間に隙間を作る。やっぱり女子は胸だなぁと、切ないながらも思う。

いーなぁ巨乳。ロリ顔巨乳ってまじやばくないか。

若干セクハラ親父めいた感想を浮かべながら、ごろごろと猫が頬ずりするように、しずるちゃんにすりすりしていると、反対側、左隣にいた『ヤツ』が声を上げた。

「真紀!お前また酔っ払ってんのかっ。もういい加減にしろよな!弱いくせにばかすか飲みやがって!」

人の襟首引っつかんで、まるで猫にするみたいに軽くぐいっと持ち上げられた。

扱いが雑過ぎやしないか、東條め。
女扱いされてないのは前々からだけど、ここまで意識されてなければもう完敗だ。
酒の熱が篭る目で、失礼な男を見上げた。作りの良い顔が目に入る。

ああもう。やっぱ良いなあ、コイツ。

不機嫌そうな顔に、あたしは酔っ払い独特のへらっとした笑顔を向けた。

「あによ東條ー。酔って何が悪いー。酒というものは、酔う為にあるのだよ!」

あたしの反論に、形の良い眉が一層顰められた。この呑んだくれめって暴言を吐かれる。

むう。人をまるでおっさんみたいに。
いや、やってたことはおっさんと変わりないのだが。

同じ企画部に所属している東條 慎(とうじょう まこと)。
同期だけど歳は二つ上の32歳。たった二歳ばかしなのに、年上だからとやたらにーちゃん面して構ってくれる。

撫で付けられた黒髪は艶やかで。
怒ったような瞳には少しの酒気が見えていて。
男に色気を感じたのなんてコイツが初めてだった。

薄めの奥二重に垂れ気味の目尻、怒ったように顰められた眉。

この顔が、すごく好き。

「とーじょーーのあほーーー。離せーっ。あたしからしずるちゃんを取るなー。あたしの癒しを返せー」

酒で呂律の回っていない口を動かしながら、あたしは未だ手を放さない東條にクレームを飛ばした。

―――この次にする行動を、しっかり計画しながら。

「うるせーぞ。佐伯さんはお前の癒しアイテムじゃねーんだよ。それに彼氏に怒られるだろうが」

うむぅ。と言葉に詰まったフリをする。
あたしの可愛い可愛い後輩、佐伯しずるちゃんにはれっきとした彼氏がいる。
経理部長の香坂さんだ。嫉妬深いというか、しずるちゃんへの執着は傍から見ているこっちがびびるほど、彼女は溺愛されていた。

だってこの前釘刺されたもんね。「しずるは僕のですから」って。僕のって言ったんだよ?あたし女だよ?彼女と同姓のあたしにさえ嫉妬するほど、愛しちゃってるんだねぇ。

あたしはそれが、泣きたくなるほど羨ましい。

む、とした顔で呆れたような目をあたしに向けるこの男に、いつの頃からか自分も同じほど愛されたいと、そう思って。

好きだと気付いたのはいつだったか。
それすらもう覚えていないけれど。

さて、それではそろそろ、と頭を切り替える。

……計画を達成しておきますか。

顔には一切出さず。自然に。
バレない様に。

「んもーーーしゃーない!うりゃっ!!」

「うっわっ!?」

一声上げて、身体を捻る。あたしの首根っこを掴んでいた東條の手を振りほどき、あたしはソイツに飛びついた。

感じた体温に、計画通りとほくそ笑む。
酔っ払いを続けながら、あたしは心で舌を出した。

「真紀っ!俺は佐伯さんじゃねぇぞ……っ!!」

「なーによーう。なら東條がしずるちゃんの代わりになってよーう。あたしの癒しーっ」

「この酔っ払いがっ!」

飛びついた胸板の厚さに、心が弾み出すのを堪えながら、あたしは彼にもしずるちゃんにしたように顔をすりすりと擦り付けた。

頭の上で、「ばっ…な…このっ!」とか言葉になってない東條の声が上がっているけど、気にしない。ひたすらぎゅうぎゅうと子供が親に抱きつくみたいにしがみつく。

色気もなんにもないけれど、それでもいい。
だって今日しかないんだもの。

今日しか。
コイツに酔ったフリをして―――触れられるのは。


「きゃー!真紀先輩の抱きつき魔!!」

しずるちゃんが黄色い声をあげ、周囲からも笑い声が響く。

いいの。どうせ明日には忘れるんだから。
明日の朝には、覚えてないフリして逃げ切るんだから。

それしか企画部のお局が、同じく企画部のしかもエースの東條に抱きつく機会なんてないんだから。
明日からは、また男勝りな仕事女に戻るから。

気の良い女友達。
そんな位置づけが辛いと感じ出したのはいつからだったろう。
毎年行われる忘年会、新年会。
お酒が絡む場所で、あたしが発揮する酒癖は、もう社内でも有名な話。

『抱きつき魔』

後輩の女の子に、次々抱きついて「癒されるぅ〜」とのたまうあたしの妙技。
女の子にしかやらないから、と黙認されていたけれど、今年だけは違った。

あたしは、今まで築き上げた「抱きつき魔」の名称を盾に、今日この一度だけ大好きな人の胸に抱かれる事を望んだ。

酒の勢い、酒の力。
ここまでくるのは長かった。

恋に積極的な人から言えば、馬鹿らしいと言われるのかもしれない。
けど、別に良い。
たった一度抱きつくだけなんて、ささやか過ぎる願いじゃないか。
そんな小さな願いさえ、あたしには叶える事が難しいのだもの。

なんとでも言えばいい。
臆病なあたしには、こんな姑息な手しか思い浮かばないのだから。

彼に想いを伝える事を、考えなかったわけじゃない。だけどやっぱり神様は不公平で、その気持ちを固める前に、東條にずっと想っている人が居ることをあたしは知った。
長い片思いらしかった。

見目も良い、仕事もできる、少々おせっかいだけど良い奴で。
そんな彼に想いを寄せられている人が、羨ましくて仕方がなかった。

本当か嘘かは知らないが、今行われている春の新規プロジェクトの企画コンペで、彼は自分の案が通ったらその想い人に告白すると言ったそうだ。
それを聞いた時のあたしは、足元が崩れ落ちる気がした。
同期で、同じ部署のお局とエースと言う立場だったけれど、気安い関係だった。奴の企画が通った時に祝い酒と飲みに行き、落ちた時には反省会だと言って飲みに行った。
でも、その関係ももう終わりになるのだろう。

今回の企画案、ヤツのは通ってしまうから。
ほぼ確定だと言う話を、しずるちゃんの彼である香坂部長からちらりと漏れ聞いた。
うちの企画部部長と幼馴染の人が言う言葉だから、間違いない。

ならばせめて。
伝えられなかったこの気持ちへの最後の贐(はなむけ)として、たった一度の抱擁を。

明日の朝にはまた、笑い話になる予定の一大決心。

だけど、そろそろ潮時かな。あまり長く東條に抱きついていたら、不思議に思われるかもしれないし。
だって普段は女の子にしかやらないもの。
今日はたまたま、ノリでやっただけ、そう思ってもらわないといけないから。

最後に一度だけ、ぎゅっと力を込めて抱きしめた。

「ん〜〜やっぱし女の子がいいなぁ〜〜」

なんて言いながら、名残惜しいけれど東條の胸から手を放す。
だけど、離したはずの手が、ぐいと後ろに引っ張られてよろめいた。

―――ふえ?

ぼすんと受け止められたのは、なぜか再び東條の胸の中で。

え?

「すいません。真紀のヤツ今日は早く酔っ払ってるみたいなんで、迷惑かけないうちに送ってきます」

あたしが酔うのなんていつもの事なのに、有無を言わさない雰囲気で東條が言葉を畳む。
くっついた身体に低く響いたその声に、ドキリと鼓動が跳ね上げた。

周りの誰かが返事を返す前に、東條はあたしの身体を引っ張り上げ、そのままバッグを引っ掴んで宴会場から飛び出して行く。

―――なぜかあたしに向かってひらひらと、微笑みながら手を振るしずるちゃんが見えた。


◆◇◆


え。
何これ。

予定が狂って混乱するあたしをよそに、東條は店を出てすぐに止まっていたタクシーへと駆け込んだ。
半ば押し込む様にあたしを乗せて、そのまま無言でバッグを膝の上に置き、運転手に向かって行先を告げる。

「駅前のヒルトンホテルまで。」

簡潔に言われた場所の名を、一瞬理解する事が出来なくて。
ゆっくりと流れる様に走り出す動きを感じ取りながら、東條の顔を凝視した。

―――だけど。
流すように向けられた黒い瞳に、「なぜ」という言葉が掻き消えて。

気がつけば、宴会場として使っていた店からほど近い場所に、タクシーが走り着いていた。
支払いを手早く済ませた東條は、またあたしの手を掴むと、そのままぐいぐいとホテルの中へと入っていく。チェックインしている間も、エレベーターにいる間も、東條は、掴んだままのあたしの手を離さなかった。

……なんで。どうして。
あたしと。

ホテルに来ているその意味が、わからないわけじゃない。
だけど、理由がわからない。

混乱したまま、流されるまま、寝室まで連れて行かれて。
目の前にはキングサイズの、メイキングされたベッドがあった。

「な、なん、で……」

「それ、聞くか?」

質問に返された質問に一層わけがわからなくなって、あたしはじりっと後ずさりした。

その途端、東條の片手がとんっとあたしの身体を軽く押す。
ぽすん、と浅い音を立ててあたしはベッドに倒れこんだ。

―――ちょっと待って。

ちょっと待って。

「ちょっと待ってっ!!」

「待つわけねーだろ」

ベッドの上でも尚後ずさるあたしに東條が覆い被さる様にして、その上に上がる。きしりと軋む音が静かな部屋に木霊した。

嫌なわけじゃない。だって好きだもの。

だけどわからない理由に不安になる。
お酒の勢いでの一夜を望むほど、馬鹿な女にはなりたくない。
だから、同じ酒の力でもこの胸に飛び込む程度で終わらせるつもりだったのだ。

なのに。

シーツに縫い付けられた身体は、あたしの本心がさせるのか抵抗という抵抗もできなくて。
首筋を辿る東條の吐息が、まるで麻酔みたいに四肢の力を抜いていく。

ずっとずっと、触れたかった。触れて欲しかった。

自分から胸に飛び込んでおいて、抱き締めて欲しいと願った。
見つめ続けた大好きな彼の顔。
落とされた口づけに、羞恥も、戸惑いも何もかもが消え去っていく。

「惚れた女を欲しがって、何が悪い」

唇をほんの一瞬離して呟かれたその言葉に、あたしは身も心も、蕩けて、落ちた―――――


泣かされて、啼かされた夜が明け、尚もあたしを抱きこんで離さない彼が放った言葉。

「今出してる企画案が通ったら、真紀に伝えるつもりだったんだ。結婚を前提に、俺と付き合ってくれって」

一気にかけ上がった体温に、あたしは思わず頭をシーツに突っ込んだ。

ああなんてこと。

東條の片思いの相手は、あたしだったのか。
あたしは、自分に嫉妬してたのか。

露ほども考えなかった真実に、混乱と嬉しさとが入り混じってぐちゃぐちゃで。
だけど確かに彼に愛された証が、今、自分の身体に刻まれていて。
じんわりと、込み上げる涙の雫と一緒に心が震えた。

そんなあたしの顔を引き出すように、東條がシーツを取っ払い、あたしの表情を露わにする。
大好きな、薄めの二重に垂れた瞳が、柔らかな笑顔を浮かべていた。

「篠原 真紀さん」

フルネームで呼ばれたのはいつぶりだろうと、彼の顔に見蕩れながらぼうっと考える。
いつの間にかぎゅっと握られた掌は、まるで捕まっているみたいだと、そう思った。

「結婚を前提に、俺と付き合って下さい。いや、むしろ結婚を確定として、が正解だな」

告げられたとどめの言葉に。

「は、はい・・・っ」

精一杯の返事を返して。

そうしてあたしは、今度は素面で、大好きな人に抱きついた。


手にしたグラスの中に宿る神。

バッカスの微笑みは、あの時あたしに向けられたのだろうか。

願わくば、恋する乙女全てに、バッカスの祝福があらんことを。



<終>

あとがき


俺様風って憧れますよねぇ……どちらかと言うと、最近は「優しい人」が求められがちではありますが、やはりここぞという時の強引さは持っていて欲しいものです。そのうち書くとは思うのですが、私の中で「優しいとヘタレは紙一重!」というイメージがあるので、そこの所を世の女性達は見極めなきゃいけないんだろうなと思います。
東條の裏話。
ヒロインの真紀は彼の事を時間をかけて好きになっていきましたが、東條にはきっかけがありました。プチ話ですが、東條が立てた企画案が初めて没になった際、真紀は彼に対し「越えるハードルがあるって面白いじゃない」と姉御感満載の励ましを送っています。(はい。なんとなくご理解いただけるかと思いますが、真紀は元陸上部です。語り口も体育会系を意識して書いています。)その瞬間に彼は「落ちて」しまったわけで、その後は「真紀を嫁にする」事だけを考えて現在のポジションを固める為今回のコンペに望みました。この後彼は企画部主任となり、四か月程後に改めて真紀にプロポーズします。「……展開早くて悪ぃけど、結婚してくれ。」がその際の台詞です。

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